大阪歴史博物館 なにわ歴史塾ブログ
大阪歴史博物館の2階なにわ歴史塾では、展示内容を深めていただくため、開架図書6,000冊、映像ソフト100本以上を用意して、皆さまのお越しをお待ちしております!

新館長就任記念講演会満員御礼

昨日(29日)の館長講演会、たくさんの方がご来場くださり、また新館長就任をお祝いくださり、ありがとうございました。残念ながら参加できなかった方のために、簡単に講演内容を振り返っておきたいと思います。

聖武天皇は、譲位後も含めると8回も難波宮に行幸しました。館長の講演は、このうち7回目の行幸、すなわち天平17年(745)8月28日から同年9月25日にかけての行幸を素材にして、聖武にとって難波がどのような地であったかを考察したものでした。

まず自説の訂正から入ります。栄原永遠男・仁木宏編『難波宮から大坂へ (大阪叢書2)』(和泉書院、2006年)に発表された「行幸からみた後期難波宮の性格」には、この行幸について以下の文章があります。


難波宮から大坂へ (大阪叢書)難波宮から大坂へ (大阪叢書)
(2006/05)
不明

商品詳細を見る


聖武がいつから病気になっていたのかはっきりしないが、先ほどの13の場合からみて、健康な状態で難波に向かってから難波で病気になったのではなく、体調が万全でないことを自覚したので難波に行き、そこで元気を回復させようとしたと考えるべきであろう。(44頁)

「13の場合」とは、聖武最後の行幸(天平勝宝8歳(756年)2月24日から4月15日)のことで、この時、聖武は体調万全でない中、娘の孝謙天皇とともにわざわざ難波まで来て、3月1日には難波堀江に行っていることが『続日本紀』に記されています。館長はこの行幸の目的を「聖武の衰えた生命力を奮い起こすために、難波堀江で禊や祭をしたのであろう」と推測されました。そして7回目の行幸も、先の文章にあるように最後の行幸と同じく病気回復を目的になされたものと考えたのでした。

今回の講演では、『続日本紀』の記述などを丹念に読み込んだ上で、7回目行幸の時、聖武天皇は「難波に向かってから難波で病気になった」と自説を訂正し、あらためてこの行幸の目的を検討されました。

まず、難波に着いてから出された9月17日の勅にある、「治道(ちどう)失(しつ)有りて…」という文言、すなわち聖武自らが自分の政治に失敗があったことを認めていることに注目します。この行幸の年、天平17年は、様々な天変地異(火災、日照り、地震)が続いた年でした。聖武天皇も含め当時の人々は、このような自然現象が起こるのは為政者が悪いのだと考え、それで「治道失有りて」という反省の言葉になるわけです。結局、聖武が難波に行幸をした目的というのは、失政という自分の罪のみそぎ・はらいをするためではないかと結論づけられました。つまり聖武天皇にとって難波は自らを清浄化する機能を持った地と認識されていたというのです。

以上が講演のごくごく簡単な要約です。先にふれた館長の論文「行幸からみた後期難波宮の性格」では、「難波宮は難波堀江で禊や祭を執り行うための準備施設としての性格を有していた」(45頁)と述べられています。今回の講演も、結果的には難波宮のもっていたこの性格を再確認したということになろうかと思います。

それではどうして難波宮あるいは難波という地は、天皇との関係でこのような性格を持つようになったのでしょうか? 講演では、その辺りのことは省略されましたが、先の論文では、難波津で行われた八十島祭という行事との関連で説明されています。この行事は「大八洲の霊を天皇に付着させ、国土の統治者としての宗教的性格を付与する」(45頁)という行事です。このような行事が少なくとも8世紀には大嘗祭の翌年に難波で行われていたというのです。つまり、難波という地は新天皇に天皇としての徳を付与したり、天皇が治者としての危機に陥った時にその徳を回復させる機能を持った土地として認識されていたということになります。

それではなぜ八十島祭は難波で行われるようになったのか? 今回はすでにここまででかなりの長文になってしまいましたので、この問題については別の機会に述べたいと思います。

プロフィール

大阪歴史博物館 なにわ歴史塾

Author:大阪歴史博物館 なにわ歴史塾
大阪歴史博物館2階「なにわ歴史塾」をもっと活用していただくために、さまざまな情報をお届けします!

最新記事

カテゴリ

くったりフレンズ時計

リンク

Flash Piano

RSSリンクの表示

検索フォーム

月別アーカイブ

QRコード

QR